昭和55年11月14日 朝の御理解



 御理解 第96節
 「世の人があれこれと神のことを口端にかけるのも、神のひれいじゃ。人の口には戸が閉てられぬ。先を知ってはおらぬぞ。いかに世の人が顔にかかるようなことを言うても、腹を立てな。神が顔を洗うてやる。」

 合楽教会が今日までにおかげを受けて来た、その過程を振り返ってみると、今日の御理解にぴったりしたものを感じます。ずいぶん笑われもしました、叩かれもしました。けれども神様が叩いた人も笑うておった人達も、だんだん合楽教会の御比礼と共に悪く云うたり笑うておった人達も合楽を見直されるようになり、そして神様の御比礼をだんだんこう、その輝きは増していくばかりの現在の合楽教会であります。
 だから結局笑われても叩かれても、昨日文男先生が発表しておりましたが、私は昨日の文男先生の発表は、もうまさにあの通りだと思います。合楽理念の根本の所はまあこれだと、私は斯く思い斯く信じ、斯く今日行じておるという内容のお話しでしたよね。皆さんもお聞きになったと思います。それは結局はあの例えば笑われようが叩かれようが、どういう問題が起ころうが、それは一般には難儀に見えようけれども、結局その元は自分自身にあるのだと。
 まあ甘木の初代ではありませんけれども、良い言葉でいうと「我よしと思う心を仇として夜毎日毎に闘いて行け」と、こう仰せられるような所を通ったのである。そして文男先生がいうように「電信柱の高いのも、郵便ポストの赤いのも、皆んな私が悪いのだ」これが椛目時代からいうならういわれておったが、これが合楽理念のここん所を基礎としての合楽理念であるという事を、話しておりましたですよね。
 だからそこには問題がないね。今度の交通事故、というが追突をされてやっぱ体もちょっと首が廻らなかったり、腰が動かなかったりする程しですから、やっぱ酷いやっぱあのう追突だったでしょう。けれどもそれを相手が悪いとか、どうという事じゃないですね。もう今例えば、追突されたら追突した方が悪いという事になっておりますけれども、信心させて頂く者は、なら追突させられなければならなかった、元は私にあるんだとこういう頂き方なんです。
 その上に立つ合楽理念です。確かにもうこれが根底にならなきゃだめです。合楽理念は分かりません。とにかく苦しいと思うなら、苦しいと思うのは貴方じゃ。貴方ならば貴方に苦しいその元はあるんだと、人にあるんじゃないんだという訳です。笑われる本当に恥ずかしい思いをする、けども思いをするその元はあなたにあるんだと。根も葉もないことを吹聴してと、その事は根も葉もないことかもしれんけど、なら人が悪口をいい、人が笑うときに自分自身を本気で見極めたら。
 それこそもっともっとひどい自分に気付かせて頂いて、そしてなら顔を洗うてやると神様がおっしゃる。顔を洗うてもらう為のなら、辛抱やら修行やらがいる。ただそのまま放っといてよいという事じゃない。それは合楽の過去の信心を、いろんな事がありましたけどその都度都度に、なら又問題なら問題、難儀なら難儀、教会としての難儀が起これば起こる程、その都度に信心を深めていき深めて来た。そこに又次の御比礼の輝く元が出けておったとね。
 自分の顔を初めから綺麗にし、自分の顔が立てば良いといったような、いうような一般的な考え方では、あのう合楽理念は分からないという事ですよね。いいやむしろそれは神愛の現れだと、頂き止めておるわけですね、文男先生の場合には。ですからその事に対して御礼が、それこそ行き届いた御礼が出けるという事になるのです。私は昨日いささかびっくりしたんですけども、信徒会長が十三日会が始まってもう開口一番、それもまぁだ今話をちょっと始めたばっかりの話を皆に発表したんです。
 というのは今度ここの先生方の結婚、合同結婚式の話をしました。まぁだ具体的にしてからいやよかとけ、まあだ一晩ちょっと話しただけの事にと思うたけれども、もう先生がことですから赤裸々にその発表しておりました。そしてまぁ今日の御理解を頂いて思うんです。又合楽の事をとやこういいたい、いいたいという人達がいくらもおります、人達のまぁいうならばある意味合いでは、笑われる元になるかも知れん、悪口をいわれる元になるやらも分からんという感じが致します。
 それこそ前代未聞の事ですからね。六組も七組ものいうなら十数人の若い先生方ばっかりのここでは生活。その中にその方達が結婚式をするちいうのじゃけん、よっぽど日頃は合楽はろくそな所じゃろと、いうふうにいうたり思うたりするかも知れませんよね。ところが昨日又十三日会が終わった後に、又先生方残って話しておりましたから、本当に合楽でなるほど若い者ですから、人間が人間らしゅう生きて行くという生き方に、習わせて頂くともう実に誰が見ても、素晴らしいカップルであり。
 素晴らしい恋愛であるという風に思うんです。そこにはいうならば後ろ指を指される様なものは一つも無いのだけれども、世間はどういうやら分からん。又いいとうて堪らん人達もある。悪口をいうたり又は笑うたりする人達もありましょうけれども、なら結局神がどんな事をいわれても笑われても、それこそ人の口には戸は立てられんのですから、それを甘受する黙って受ける。いやむしろ有り難いと受ける神愛として受ける。ただ受けるというだけじゃなくて、なら今度まぁ恐らくいつもよりとにかく早急なんです。
 緊急にその今までまぁ何といいましょうかね。まぁチャンスを願いながらの、ですから押さえ押さえして来ておった人達が、まぁ今度合同結婚式という事になる訳ですから。昨日発表者の中に、手島さんという方が福岡から参って来ます。あの子供さんが足が萎えておる子供を抱いていつも参ってくる人です。あの人が今度発表という事になっておって、まぁ大勢の前で人に話した事も、信心も出けていない自分が何を話していいだろうかと、思い余って主人に話した今度合楽で。
 そしたら主人が非常に信心嫌いで、まぁ反対してたんですけれども、最近は反対は信心はしないけれども、まぁ奥さんのその後の変わり方に少しは驚きの目をもって、奥さんを見ておる感じです、昨日の話しの模様が。一番最後にあの人がいっておりました。「もう今度私が発表せんならんがどんな事話したらいいだろうか。」というたら主人がいうたら、「僕と君の事を話したらいいじゃないか。」と。僕がこんなに信心嫌いであったり好かんのだったけれどもね、まぁこの頃嫌いとか好かんとかいわんようになった。
 お参りするちゃ「あぁそうか」というてならお初穂でもちゃんとくれる様になった。もうお初穂参拝してくるのに旅費がいる、お初穂がいる。もうそれをカバーするのに大変な苦労だった訳です。そりでその歯医者に使うとか何とかいうて金使いよったけれども、わざわざ向こうの歯医者に行って調べられたり、領収書を持って来いとかと、いちいちいわれるもんだから、どうにも出けんという様な中をまぁ信心辛抱し抜いて、なら今日の手島さんの信心がある。
 今度福岡で発会しました「くの一会」にも参加させてもらって、もうそれこそ自由自在な有り難いの心の使い方を、させてもらう稽古をさせて頂いておるのを、主人が見て感心し出した訳です。「ほう合楽の信心ちゃどういう信心か」と求めるようになった、聞くようになった。そしてなら「何を話そうか」というたら、その主人が「僕と君の事を話せばいいじゃないか」と申しましたという発表しとりましたがね。
 お互い信じるどんなに悪口をいわれよっても、笑われよってもそれがおかげの方へ変わっていくならば、なるほど成程と合点して来る事でしょう。なら今度結婚式に踏んぎられる所の先生方がです、本当に夫婦共々お道の教師の資格を持っておる人達ですから、なら海外布教なら海外布教に出らしてもろうて、そこに一つの御比礼を頂くようになったら、はぁ程と合点がいく。それこそ神様が顔を洗うて下さる時期というもの。ただじっとして待つのじゃないね。
 それこそまぁいわれようが叩かれようが、そこん所の信心辛抱も改まって磨いて、辛抱してゆくという生き方が、まぁ今度結婚式をになる先生方が思わなきゃならん所であり、改めなければならん所であるね。笑われる事でも叩かれる事でもないのですけれども、世間ではそれこそ根も葉もないじゃなくて、根も葉もあるのですから、もう恐らく笑われるに笑う人は笑うでしょう、悪口をい云う人は悪口をいうでしょうね。けれども堂々御比礼を頂いて、そこに御比礼が打ち立てられるようなおかげを頂いた時に。
 初めていうならば顔を洗うてやるという、働きが起こって来るんじゃないかと思います。これは過去三十年間の合楽の信心を振り返ってみるとそうです。笑われるような事もありました。事実笑われるような元もあったね。又叩かれるような場合もあった。そこには叩かれる元はこちらにあった。文男先生じゃないですけれども、合楽理念のいうならまぁ根本の所は、椛目時代からもう培われておった。そして今日ならいよいよ助かりの理念といわれる合楽理念を、説かれるようになった訳ですからね。
 これはいろいろな場合にそれをいい訳をしたり、いやそうじゃないですよというような事をいわなくても、それを自分自身の内容に持ってきて、いよいよ改まった生活。いうならいよいよその事を通して磨かせてもらうおかげを頂いて、神様に顔を洗うてもらうそのおかげというのは素晴らしいんです。なら今日合楽がおかげ頂いておるようなもの。昨日申しました事でしたけれども、三年後には教祖百年祭、三十年も前に神様が百年祭を目指して、それこそ日本一を目指して。
 選手が十名あまりのものがこう一線上に立って、「これから百年祭を目指して日本一を目指せ」と、いった様な御理解を頂いた事がございましたがね。その日本一のという事が私共の信心でおぼつかないけれども、選手の中に加えられておる事だけは絶対ない、間違いない。こりゃもう三十年前からその事に私も取り組んで来た。とてもまだ私が修行の真最中の時ですから、とても人が助かるとか教会になるとか、そげな事まだ全然考えてない時ですから、所がなら今日この様な御比礼を頂いて。
 か知らんけれどもね。本当にひょっとすると日本一になるかも知れんような、勢いが合楽の御比礼の中にあります。一番最高な事は今いう先生方ね、修行生の先生方があのう沢山育ってきた事です。これは現在ではこの事だけは日本一なんです。これに信者の一人一人の方がです、合楽理念を引っ提げて、今度の百年祭の記念大祭に参加出来るようになったら、なら素晴らしい事だと。烏合の衆じゃいかん、枯葉も枯れ木も山の賑わいではいかん。一人一人が合楽理念に基づいて。今はあなた一人でしょうけれども。
 反対しておった主人も一緒にお参りするようになりました、という人達の団体参拝でなからなきゃならんと私は思います。昨日一昨日教務所の方から電話がかかって、今度の御本部参拝は、日にちもなんか九月の月末頃にならなきゃならん。それから汽車もあのう国鉄の方が非常に変わって参りまして、個人では個人とか教会だけで、団体参拝を組むという様な事は出けない。であちらの団体と一緒に日にちも九月の何日といった様な風に、まぁ通知があっておりました。だからまぁ成り行きがそうなっていくなら。
 それでいいじゃないかと私はいうておりましたら、国鉄の方で教務所の方で調べられたか、家で調べたか知りませんけれど、しかも丁度あのうここで御本部参拝をする、十月七日の一日だけなんか一本その汽車が出るそうですたい。だからそれを合楽に貰おうといよりますがというからそりゃ願ってもない事だなぁと。それにはなら六百名なら六百名の乗る人がなからなければ出けない訳ですね。ですから皆さんが三年後に参拝させて貰う教祖百年祭にゃです。お参りの人数においてはまぁだ沢山参る所もあろうけれども。
 その信心内容だけはいうなら、合楽理念を持っておかげを頂いておる人達の集まりがですね、百年祭を目指させて頂くなら、恐らくは日本一と神様がを目指せと仰った。それを目指した事になるというふうに私は思います。それにはねこれはなら人が悪口をいおうがとこう仰る、その例えば悪口を聞こうがいわれ様がですね、神様が顔を洗うて下さる日を楽しませて頂くその間の信心修行です。いやぁ人が何とかかんとかいいよったけれども、合楽は大した事だなぁといわれるようなおかげを。
 銘々が頂かねばならんというふうに思います。まぁ昨日の事から今日の事に、もう昨日皆んなに発表致しましたから、皆さんにもその事をまぁちょっと聞いて頂いた訳ですけれども、まぁ格好の悪口をいわれる、まぁ第三者からいうたらという事ではなかろうかと思います。けれどもそこんところを、神様が顔を洗うて下さる。いやそこからむしろ合楽の御比礼が、また一段と輝き出すといったような、おかげを頂きたいもんだというふうに願っております。
   どうぞ。